1929年2月14日、シカゴで起きたギャングの虐殺事件。
この事件で7人のギャングが殺されてしまいます。
1920年代、禁酒法によりシカゴは暗黒街と呼ばれギャングが勢力を伸ばしていました。
そんな中シカゴを牛耳っていたアル・カポネは、自分に抵抗し続け自分の地位を脅かそうとしているモラン率いる北地区に対して反撃に出たのです。
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『 聖バレンタインの虐殺/マシンガン・シティ』作品情報
タイトル | 聖バレンタインの虐殺/マシンガン・シティ(The St. Valentine’s Day Massacre) |
監督 | ロジャー・コーマン |
公開 | 1967年7月29日 |
製作国 | アメリカ |
時間 | 1時間40分 |
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アル・カポネ
1920年代に制定された禁酒法。
この法律によりお酒の製造・販売・輸送が禁止されます。
お酒を飲むことは違法ではありませんでしたが、販売が禁止されているため市民は外でお酒を飲むことはできなくなってしまいます。
そこに目をつけたのがギャング達。
彼らは密造酒を製造し販売、さらには潜りの酒場である「スピークイージー」を経営してお金を儲けていました。
そんな中シカゴにはギャング達が集まり、アル・カポネが率いる組織がシカゴの街を牛耳っていました。
NYで育ったアル・カポネは1919年シカゴにやってきます。
酒場の用心棒を務めたいた野心家の彼は6年間でシカゴの暗黒街のボスまで上りつめました。
カポネ組織の勢力は凄まじく、市長や警察などを買収し色んなところで汚職が行われていました。
事実上シカゴを牛耳っていたのは市長ではなく、アル・カポネだと言われるほどだったのです。
ただし、そんなカポネが牛耳るシカゴの中で、北地区だけは様子が違っていました。
この地区を牛耳っていたのは別の組織で、5年にわたりカポネの組織と抗争が続いていました。
1920年代終わりになると北地区の組織のリーダーのジョージ・モランは、カポネの組織が仕切る酒場を奪うだけではなく、彼はカポネの命を狙い始めたのです。
しかしそれを知ったアル・カポネもまたモランの組織を潰そうとします。
そして1929年2月14日、バレンタンデーの日に事件が起きたのです。
聖バレンタインデーの虐殺
1929年2月14日に起きた聖バレンタインデーの虐殺事件。
マフィアのロロルドをモラン一味に殺されたことで、アル・カポネは復讐を決めます。
カポネ組織のNo.1の殺し屋マシンガン・ジャック・マクガーンがリーダーとなって、モランの暗殺を計画します。
それは、モランにお酒の密売を持ちかけ2月14日の朝にモランを誘い出し殺害する計画でした。
2月14日の朝10時半カポネの部下達は計画を実行します。
警察のふりをしてモランのいる場所に乗り込み、倉庫にいた7人を壁際に立たせてマシンガンで殺しました。
殺された7人は
[box class=”pink_box” title=””]・ピーター・グーゼンバーグ(殺し屋)
・フランク・グーゼンバーグ(ガンマン)
・ジェームズ・クラーク(モラン組織のNo.2)
・アダム・ハイヤー(モラン組織の会計士)
・ジョン・メイ(車の整備士)
・ラインハルト・シュワイヤー(ギャングに憧れる医師)
・アルバート・ワインシャンク(モランの仕事仲間)[/box]です。
実は殺害された7人の中にモランはいませんでした。
見張りがワインシャンクとモランを見間違ってしまい、モランがいない中で現場に乗り込み7人を殺していたのです。
モランは現場近くにいましたが、偶然警察官の姿を見たことで時間を潰していました。
そのためモランは殺されずにすみましたが、アル・カポネの存在を恐れ結局シカゴから姿を消したのでした。
まとめ
1929年2月14日、バレンタインの日に起こった出来事。
それは長きにわたって語り継がれるほどの虐殺事件になりました。
その後1931年にアル・カポネは脱税で捕まり、禁酒法自体も1933年には廃止されてしまいます。
それとともにシカゴのギャングも勢いを失って行きますが、禁酒法という法律がギャングをのさばらせることになり、この時代のシカゴ市民を恐怖に陥れていたのでした。