生涯現役を貫いた天才浮世絵師葛飾北斎。人生の50年の時代に90歳まで生きた長寿の秘訣。それは好きなものをとことんやり抜いた彼の人生にありました。絵を描くことが葛飾北斎の生活そのものだったのです。今回はそんな葛飾北斎を健康診断しています。
葛飾北斎 天才脳の秘密
[aside type=”normal”]
人生50年と言われた時代に90歳まで生きた葛飾北斎。
長寿、そして天才の秘密を現代医学で解き明かす。
名作「冨嶽三十六景」の中に、上空2500mから見た富士山の景色を描いた一枚がある。
実際にその地点へ行ってみると、北斎の天才的な脳の秘密が明らかに…。
さらに、いつも布団をかぶってうつぶせで絵を描くというものぐさな姿勢も、実は腸内環境を良好に保つのに最適なものだった!
(出典:https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2019-08-08/10/30616/1800017/)
[/aside]
葛飾北斎
1760年9月23日、現在の東京墨田区で生まれた葛飾北斎。
幼い頃から絵を描くのが大好きな少年でした。
彫り師の見習いとして絵を学んだ北斎は、19歳の時に浮世絵師勝川春章に弟子入りします。
そしてわずか1年後には勝川春朗という名前で浮世絵師としてデビューしたのです。
その後人生を浮世絵に費やす北斎でしたが、彼の代表作のほとんどは70歳以降に描いたものでした。
30歳の頃は「模倣ばかり」と世間に評価されるほどでした。
しかしそれは北斎の勉強の方法でもあったのです。
北斎は30代の頃はあらゆる手法の絵を学び、徹底的に模倣しながら学んでいました。
そしてその学びが70歳以降の北斎の絵につながるのでした。
天才的な脳と長寿の秘訣
北斎の代表作の1つである富嶽三十六景。
70歳を過ぎた北斎でしたが、実際に現地を訪れながら絵を書いていました。
いわゆるスケッチ旅行を行なっていたのです。
その中の1枚に山下白雨という絵があります。
これだけはどこからみた富士山なのかわからず、長い間謎とされていました。
この絵を現代科学で調べると、案と2500mの上空からみた富士山の絵でした。
当時、実際に見ることのできなかった上空の富士山を、北斎はどうやって描くことができたのでしょうか?
その秘密は北斎の空間認識能力にありました。
北斎は旅をしながら、頭の中で地図を作り上げ、そしてそのイメージで山下白雨の構図を思いつき描いたと考えられます。
空間認識能力を司るのは脳の海馬と呼ばれるところです。
北斎はこの海馬が発達していたのでした。
しかもそれには北斎のスケッチ旅行が関係していたと考えられます。
運動が脳の健康を保つのに有効だということが近年わかってきました。
北斎は70歳過ぎても旅ができるほどの健脚の持ち主でした。
その足で旅を続けながら、知らぬ間に脳の若さも保っていたのです。
そしてそれが北斎の長寿にも繋がっていたと考えられるのです。
ものぐさ北斎の長寿の秘訣
絵を描くことだけに人生を捧げた北斎の生活は、とてもものぐさなものでした。
ほとんど布団から出ずに、布団の中で四つん這いで絵を描き疲れたらそのまま横になって寝ます。
北斎はそんな生活を送っていたとされています。
部屋もゴミだらけの北斎は、汚くなると引越を繰り返し93回も引越しをしたと言われているほどでした。
しかしこのものぐさの姿勢が北斎の長寿に関係あったようです。
うつ伏せや四つん這いの姿勢は腸の環境にいいとされています。
それはおならが出やすい姿勢だからです。
腸には腸内細菌がたくさんありますが、ガズが溜まってしまうと腸内環境が悪くなり細菌の数も減ってしまいます。
おならをすることで腸内環境がいい状態に保たれるのです。
北斎のものぐさの四つん這いの姿勢が、北斎の腸内環境を良好状態に保ていたのかもしれません。
絵のための人生
長寿だった北斎ですが、70歳を前にして一度病に倒れます。
それは中風と呼ばれる、軽い脳梗塞でした。
当時は気の少ない人はなる病とされていましたが、北斎はなんとかして病を治しまだまだ絵を描き続けたいと思います。
当時、ゆずが中風にいいとされたいたので北斎は自らゆずで薬種を作ります。
ゆずなどの柑橘類は血管を拡張させる効果があるとされています。
この薬種を飲んで北斎は再発を予防していたのです。
そして残りの人生今まで学んできたことの全てを出して絵を描こうと思った北斎。
この頃から作風が変わり、たくさんの名画が生まれたのです。
そんな北斎も1849年4月12日、90歳でなくなりました。
老衰でした。
好きなことをやり通した北斎。
生涯現役で人生に幕を閉じたのでした。