冷戦時代のハリウッドで赤狩りの対象となってしまった脚本家ダルトン・トランボ。ハリウッドで最も稼ぐ脚本家だったトランボは、ハリウッドの全てのスタジオから解雇されてしまい仕事を失ってしまいました。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』には名前を隠して書き続けたトランボの戦う姿が描かれています。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』作品情報
タイトル | トランボ ハリウッドに最も嫌われた男 (Trumbo) |
監督 | ジェイ・ローチ |
公開 | 2016年7月22日 |
製作国 | アメリカ |
時間 | 2時間4分 |
あらすじ
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第二次世界大戦が終結し、米ソ冷戦体制が始まるとともに、アメリカでは赤狩りが猛威をふるう。
共産主義的思想は徹底的に排除され、その糾弾の矛先はハリウッドにも向けられる。
売れっ子脚本家だったダルトン・トランボは、公聴会での証言を拒んだために議会侮辱罪で収監され、最愛の家族とも離ればなれとなってしまう。
1年後、ようやく出所したトランボだったが、ハリウッドのブラックリストに載った彼に仕事の依頼が来ることはなかった。
そんな中、家族を養っていくためにB級映画専門のキングス・ブラザース社から格安の仕事を請け負い、偽名で脚本を書きまくるトランボだったが…。
(出典:https://www.allcinema.net/cinema/355329)
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赤狩り
1930年代に起こった世界大恐慌。
アメリカから始まった大恐慌は失業率が25%以上にもなり、多くの人が貧しい中での生活を余儀なくされてしまいます。
そんな中ソ連ではスターリンの指導のもと5ヵ年計画が進められ、経済政策が成功したように見えていました。
さらにドイツやイタリアでファシズムが力を見せ始めていました。
独裁主義で人権を無視するファシズムに恐れを感じる人も多くいたのです。
そのような状況から世界各国で共産主義運動が広まり、第二次世界大戦でアメリカとソ連が手を結んだこともあり、脚本家のダルトン・トランボは1943年に共産党に入党しました。
しかし戦争が終わるとアメリカとソ連は冷戦に突入してしまいます。
その結果政府は反米勢力から自国を守るために共産主義者を敵と見なし、非米活動委員会を立ち上げ赤狩りを始めたのです。
その中でもリベラルや共産主義者の多かったハリウッドは標的にされてしまいます。
映画を使って「アカ」のメッセージを送っているとされ、また市民への見せしめ的な考えもあってハリウッドの共産主義者達は非米活動委員会に召喚されることになりました。
その中の1人がダルトン・トランボだったのです。
ダルトン・トランボ
1940年代半ば、ハリウッドで最も稼ぐ脚本家だったダルトン・トランボ。
1940年に映画『恋愛手帖』でアカデミー賞脚色賞ノミネート
小説『ジョニーは戦場へ行った』が出版され、(この作品はその後1971年にトランボ自身が監督を務め映画化されています)
1943年には『ジョーと呼ばれた男 』『夫は還らず』など立て続けに脚本を手がけ、ハリウッド1の売れっ子脚本家でした。
映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の中ではMGMと最高額で契約をするシーンも描かれていました。
しかしそんなトランボも非米活動委員会の前では無力だったのです。
召喚されたトランボは自分が共産党員だったことに関しては答えませんでしたが、侮辱罪となってしまいました。
ハリウッドも非米活動委員会を恐れトランボ達を解雇してしまいます。
さらに侮辱罪で有罪となったトランボは1年間刑務所に入ることになります。
また非米活動委員会に召喚された仲間がトランボ達共産党員の名前をあげ、トランボはハリウッドで仕事ができなくなってしまったのです。
2つのオスカー
ハリウッドで仕事ができなくなってしまったトランボでしたが、彼は家族を養うために仕事をしなくてはいけません。
なので彼はダルトン・トランボという名前を隠し脚本を書き続けたのです。
ローマの休日
1947年非米活動委員会に召喚され侮辱罪を言い渡され名前を使って脚本を書けないトランボが、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を使って書いたのが、映画『ローマの休日』の脚本です。
召喚中自分が共産党員だったという真実を語れなかったトランボは、その想いを『ローマの休日』の中に出てくる「真実の口」のシーンに重ねます。
さらに映画のラストで記者の前で語るアン王女に、自分の想いを語らせました。
1953年に公開された『ローマの休日』はアン王女を演じたオードリー・ヘップバーンを一躍トップスターにした作品であり、彼女はこの作品でアカデミー賞主演女優賞を獲得しています。
さらに『ローマの休日』はアカデミー賞原案賞を受賞します。
トランボの名前伏せていたので名前を貸したイアン・マクレラン・ハンターが受賞することになりますが、1993年トランボの妻であるクレオが、1976年に亡くなったトランボの代わりに『ローマの休日』のオスカーを受け取りました。
黒い牡牛
トランボが長年温めていた、妻とメキシコで見た闘牛のことを描いた映画『黒い牡牛』。
家族をテーマにしたこの作品を、トランボはB級映画を作っていた製作会社キング・ブラザースの元で書きます。
キング兄弟は仕事がなかったトランボを使い続けた人物でもあります。
トランボは実在しないロバート・リッチという名前で『黒い牡牛』を書き1956年に映画化されますが、彼はこの作品でもアカデミー賞原案賞を受賞することになったのです。
ブラックリストに載っているということで『黒い牡牛』に関わっていることを伏せていたトランボでしたが、1975年ようやくオスカーを手にすることができたのでした。
名前を取り戻したトランボ
『黒い牡牛』でオスカーを受賞したロバート・リッチが姿を見せることがなかったので、ロバート・リッチはトランボではないかという噂がハリウッドで広まり始めます。
そしてついに1959年彼はロバート・リッチが自分であることを認め、ブラックリストを無くすべきだと語っています。
それでも当時はまだ非米活動委員会によって赤狩りが行われていて、トランボ達はブラックリトに名前が載っているため本当の名前で仕事ができない状態でした。
そんな中、1960年トランボは『スパルタカス』と『栄光への脱出』でついに自分の名前を取り戻します。
1960年9月に公開された映画『栄光への脱出』。
ポール・ニューマンが主演を務めるこの作品で、脚本家ダルトン・トランボの名前がクレジットされます。
オットー・プレミンジャー監督はトランボの名前をクレジットすることを決定しますが、それはトランボにとって約15年ぶりの出来事でした。
映画『栄光への脱出』が公開されたわずか3週間後、トランボの名前は映画『スパルタカス』でもクレジットされることになります。
カーク・ダグラスがプロデューサーと主演を務めた『スパルタカス』は、ローマ帝国に戦いを挑んだ1人の男の物語です。
それはハリウッドで戦いつづけるトランボの姿でもありました。
トランボの名前がクレジットされたことによりデモ隊などが反上映運動などが起こりましたが、公開されるとヒット映画となります。
さらに当時のケネディー大統領が「良い映画だ」とコメントしたことでますます劇場に足を運ぶ人が増え、結果的に大ヒット映画になりました。
赤狩りという長い戦いを終えることができたトランボは、1960年にやっと自分の名前を取り戻すことができたのです。
まとめ
赤狩りによって名前を奪われてしまった脚本家ダルトン・トランボは、言論の自由を求めて最後まで戦い続けました。
それは長い戦いでありトランボ仕事を奪っただけでなく、友情さえも壊してしまう残酷な戦いでした。
それでもトランボは脚本家として書くことで戦い続けました。
ダルトン・トランボが残した数々の名作は、諦めずに戦ったトランボの思いが詰まった作品でもあるのです。