1994年4月6日に始まったルワンダでのツチ族の虐殺。その中でミル・コリン・ホテルで1200人を救ったとされるポール・ルセサバギナ氏のことを描いた物語が映画『ホテル・ルワンダ』です。ここでは映画の中の出来事と真実を比較しながら、あの時ルワンダで起きていたことをみていきたいと思います。
映画『ホテル・ルワンダ』作品情報
タイトル | ホテル・ルワンダ(Hotel Rwanda) |
監督 | テリー・ジョージ |
公開 | 2006年1月14日 |
製作国 | 南アフリカ共和国/イギリス/イタリア/アメリカ |
時間 | 2時間1分 |
あらすじ
(引用:MIHOシネマ)
ツチ族vsフツ族
ルワンダで暮らすツチ族とフツ族。
二つの部族がルワンダにやってきた頃は、お互いうまく共存しながら暮らしていきました。
ツチ族とフツ族の間で結婚も認められていました。
しかし、少しずつ二つの部族の間に優越が生まれ始めます。
そしてそれが決定的になったのは、第1次世界大戦後にベルギーがルワンダを植民地にしてからでした。
ベルギー政府はIDを配りルワンダ国民をツチ族とフツ族に分けました。
長年ツチ族がフツ族を支配していましたが、ルワンダ独立直前に暴動を起こしたフツ族はツチ族の虐殺を始め、フツ族の独裁政治を始めました。
生きるためにルワンダを離れ難民となったツチ族もたくさんいました。
国外へ逃亡したツチ族はルワンダ愛国戦線(RPF)という反政府軍を作ります。
彼らの目的はただ1つ、ルワンダに帰ることでした。
1994年4月6日
映画『ホテル・ルワンダ』の冒頭ではルワンダの大統領がRPFと和平協定を結び、その後暗殺されて虐殺が始まったように描かれています。
しかし、実際は時系列が少し違います。
ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領がRPFと和平協定を結んだのは、1993年8月4日です。
アルーシャ協定と呼ばれ、大統領はRPFを和平協定を結び、長年に続く民族間の戦争を終わらせました。
大統領はそのままですが、ツチ族はルワンダに帰ることを認められます。
さらに政府軍とRPFを1つにまとめる約束がされました。
その間、ルワンダ国内の混乱を抑え安全を維持するために国連平和維持軍がルワンダに駐在することになりました。
しかし、フツ族至上主義者にとっては面白くありません。
大統領が自分たちを裏切ったと感じていたのです。
そしてアルーシャ協定から4日後、あるラジオ局は放送を始めます。
それが映画『ホテル・ルワンダ』の冒頭に流れるラジオ放送です。
彼らはフツ族至上主義専門局としてルワンダ全土に放送を行うようになったのです。
彼らは色んな理由をつけてツチ族、フツ族の富裕層さらにはツチ族に近いフツ族を逮捕し始めました。
さらにツチ族の家を焼き、彼らを殺し始めていたのです。
そして1994年4月6日、ジュベナール・ハビャリマナ大統領が乗る飛行機が撃墜され墜落し、大統領は亡くなってしまいました。
フツ族至上主義専門局のラジオは、この事件の犯人をツチ族だと放送しツチ族の人々を殺すように堂々と放送しました。
実際は大統領の乗る飛行機を撃墜した犯人はわかっていません。
それどころか黒幕は大統領の側近の急進派だとされ、この頃急進派はツチ族虐殺を計画中だったと言われています。
急進派にとってはPRFと和平協定を結んだ大統領もまた邪魔な存在だったのです。
大統領が亡くなった後、すぐにフツ族至上主義の暫定政府が誕生し、民兵たちによるツチ族の大虐殺が始まりました。
ルワンダ国内にいた平和維持軍は自衛以外での武器の使用は認められていませんでした。
その平和維持軍の前で次々と虐殺が行われます。
さらに平和維持軍の兵士たちもまた、民兵に殺されていたのです。
ポール・ルセサバギナ氏
映画『ホテル・ルワンダ』ではポール・ルセサバギナ氏は、ミル・コリン・ホテルの支配人となっていましたが実際は違います。
彼はホテル・ディプロマトのマネージャーでした。
1994年4月6日、事件を聞いた彼は急いで妻や家族の待つ家に戻ります。
外出禁止令でずっと家にいたルセサバギナ氏でしたが、4月9日政府軍の兵士がポールのもとにやってきます。
政府はホテル・ディプロマトに本部を設置しようとしていました。
ホテルの部屋の鍵は金庫の中だったので、金庫を開けるためにルセサバギナ氏の元にやってきたのです。
これが映画の中でルセサバギナ氏が兵士たちに連れられて、ホテル・ディプロマトに向かった理由です。(映画の中では理由が明確に描かれていませんでした。)
ルセサバギナ氏は家族や親戚近所の人を連れて、ディプロマトに向かい兵士に鍵を渡します。
その後、ルセサバギナ氏達は殺されそうになりますが、彼はお金を渡しなんとか兵士たちを説得します。
そしてミル・コリン・ホテルに逃げ込んだのです。
その頃ミル・コリン・ホテルは平和維持軍の兵士がいて、助けを求めてやってきたとツチ族や穏健派のフツ族の人たちで溢れていました。
ルセサバギナ氏たちもこのホテルで避難生活を始めますが、ルセサバギナ氏の元にミル・コリン・ホテルのオランダ人マネージャーから電話がかかってきます。
マネージャーはオランダに一時的に帰国するでの、ルセサバギナ氏に自分の留守中ホテルを管理して欲しいとお願いしたのです。
ルセサバギナ氏は以前ミル・コリン・ホテルで働いたことがありました。
こうしてルセサバギナ氏は避難民であふれるホテルを任されることになったのです。
ホテル内
ルセサバギナ氏が逃げ込んだホテルの周囲には、彼らの命を狙う民兵がたくさんいました。
ルセサバギナ氏やホテル内にいた人たちのコネを使って、なんとか彼らは命を繋ぎとめていました。
ホテルの電話線は民兵によって切られていましが、1つだけFAXの回線がつながっていました。
ルセサバギナ氏達はFAXを使って、国外の人たちにホテルで起こっている現状を訴え続けたのです。
映画の中で平和維持軍によってホテルから脱出する様子が描かれています。
あれも実際に起きたことでしたが、ホテルの外にいたスパイが民兵に連絡を入れ、脱出車が乗ったトラックは途中で止められてしまいました。
彼らはトラックから降ろされ拷問されます。
多くの人が死を覚悟していましたが、脱出者はトラックに乗せられホテルに連れ戻されました。
生き残った人たちは、なぜ自分たちが生きてホテルに戻れたのか知りません。
あの時何が起きて彼らは助かったのは分かりませんが、ホテルからの脱出には失敗しましたがなんとか彼らは生きることができたのです。
ホテルが襲撃されるという情報を聞けば、ルセサバギナ氏はフランスの外務省に電話し助けを求めました。
また映画の中で描かれているように、ルセサバギナ氏は政府軍のビジムング将軍にもお酒を送り、政府軍に民兵の行動を抑えてもらいました。
実際、ルセサバギナ氏はディプロマトのホテルにお酒を探しに行っている間に、ホテルが民兵によって襲撃されることもありました。
ルセサバギナ氏の家族は映画のように、バスルームに隠れ襲撃を逃れたのです。
脱出
ルセサバギナ氏達がホテル内で怯える生活を送っている頃、RPFは少しずつルワンダ国内を奪還しつつありました。
そして彼らは、捉えた政府軍の捕虜とミル・コリン・ホテル内の避難民たちの交換という交渉を行いました。
その取引はうまくいき、やっとミル・コリン・ホテルの避難民たちは、ホテルから脱出することができました。
映画では一度にみんなが脱出したようになっていましたが、現実は何日にも渡って少しずつ解放されていきました。
その間にも民兵たちはホテル内で略奪を行っていましたが、ビジムング将軍が民兵を抑えていました。
そしてやっとルセサバギナ氏と家族も、平和維持軍の輸送車でPRFの支配地域まで逃げることができたのでした。
まとめ
1994年にルワンダで起きたことを、映画『ホテル・ルワンダ』の内容と照らし合わせながら見てみました。
時系列が少し違いますが、ルセサバギナ氏があの時ホテルで1200人もの人を救ったのは真実です。
事実と照らし合わせながら映画を見ると、ホテルの中にいた人達の命は全て相手次第だったということが分かってきます。
少しでも何かがズレていたら、生存者はいなかったかもしれないのです。
参考資料
「ジェノサイドの丘―ルワンダ虐殺の隠された真実」