映画『ホテル・ルワンダ』見た目はほとんど変わらない民族同士の戦い そして虐殺


1994年に起きたルワンダ大虐殺。西側諸国の対応が遅れたためにルワンダでは多くの人達が殺されてしまいました。ルワンダの民族、外国人から見ればほとんど見た目の変わらない2つの民族フツ族とツチ族。彼らは過去の関係から互いを憎しみ合うようになっていました。そしてそれが1994年ついに爆発したのでした。

『ホテル・ルワンダ』作品情報


ホテル・ルワンダ [Blu-ray]

タイトル ホテル・ルワンダ(Hotel Rwanda)
監督 テリー・ジョージ
公開 2006年1月14日
製作国 南アフリカ共和国/イギリス/イタリア/アメリカ
時間 2時間1分

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あらすじ

1994年、ルワンダの首都キガリ。

多数派のフツ族と少数派のツチ族の内戦はようやく和平交渉がまとまるかに見えたが、街では依然としてフツ族派ラジオ局が煽動的なプロパガンダを繰り返し不穏な空気に包まれていた。

ベルギー系の高級ホテル“ミル・コリン”で働く有能な支配人ポール。

ある晩帰宅した彼は、暗闇に妻子や近所の人たちが身を潜めているのを目にする。

フツ族大統領が何者かに殺され、これを契機にフツ族の人々がツチ族の市民を襲撃し始めたのだ。

ポール自身はフツ族だったが、妻がツチ族だったことから一行はフツ族の襲撃を逃れミル・コリンに緊急避難する。

外国資本のミル・コリンはフツ族の民兵たちもうかつには手を出せなかった。そのため、命からがら逃げ延びてきた人々が続々と集まってくるのだが…。

(出典:https://www.allcinema.net/cinema/323478)

フツ族とツチ族

ルワンダの民族フツ族とツチ族。
もともとツチ族が支配していたルワンダでしたが、人口的にはフツ族の方が多い状況でした。

第一次世界大戦後ドイツが撤退した後、ルワンダはベルギーの植民地となりました。
そしてベルギーはツチ族にルワンダを支配させました。

その頃からフツ族のツチ族に対する不満は起き、ルワンダ独立後にはフツ族がルワンダを支配するようになりました
しかしフツ族の怒りは収まらず、ツチ族の根絶を望むようになっていったのです。

フツ族がルワンダを支配するようになると、ツチ族の人は隣の国のウガンダに逃げるようになります。
そこでツチ族の人たちは、反乱軍RPF(ルワンダ愛国戦線)を結成しました。

これにより、ルワンダの国内ではフツ族の軍とRPFによる内戦が起き始めたのです。

しかし1993年ルワンダの大統領ジュベナール・ハビャリマナは、RPFと和平協定を結びます。
ジュベナール・ハビャリマナはフツ族の大統領でしたが、彼がツチ族の反乱軍と協定を結んだことで、多くの人がこれでルワンダが平和になると思っていました。

映画『ホテル・ルワンダ』はその和平協定が結ばれる日から始まります。

ルワンダ大虐殺

1994年4月6日ルワンダの大統領ジュベナール・ハビャリマナの乗っていた飛行機が何者かによって撃墜され大統領は亡くなってしまいます。

実はこの事件の犯人は分かっていないのですが、フツ族の過激派はツチ族が大統領を暗殺したというニュースを流します

これがきっかけとなってフツ族のツチ族に対する虐殺が始まったのでした。

ミル・コリン・ホテルの支配人ポール・ルセサバギナは、ホテルに逃げてきた1268人の人たちをかくまいました。

彼はフツ族でしたが彼の妻はツチ族です。
またホテルにはツチ族・フツ族両方の従業員もいました。

ポールは家族を助けたいという思いでしたが、やがてそれは多くのツチ族の人を助けることになっていきます。

フツ族の軍や過激派はツチ族だけでなくフツ族をかくまう人も殺していました。
ポールのいたホテルにはツチ族だけでなくフツ族の人たちも避難してきたのです。

避難してきた人たちは国連やフランスやイギリスやアメリカに助けを求めますが、彼らはルワンダ国内のことに介入しないことを選びました。

ポール達は自分達で何とかして生き残るしかなかったのでした。

ポールのルワンダ政府への賄賂や平和維持軍の手助けもあり、ポール達はなんとかホテルを脱出し安全な場所へ避難することができましたが、ポールがホテルで見たものは恐ろしく酷い現実でした。

ルワンダ大虐殺は1994年7月18日にRPFがルワンダ政府軍を制圧して終わりますが、約100日間の間に約100万人の人が亡くなったとされています。

まとめ

ルワンダ国内で起きた民族間の争い。
しかしそれは大虐殺に繋がり多くの人が命を落とすという悲劇になってしまいました。

そんなルワンダの大虐殺を描いたのが『ホテル・ルワンダ』。

この映画を見れば。ルワンダ大虐殺がどれほど残酷で惨いものだったかを知ることができます。

そしてこの事件は決して忘れてはいけない歴史なのです。