コロラド州デンバーからカリフォルニア州サンフランシスコまで車を運ぶコワルスキー。金曜日の深夜に車を受け取り、月曜日までに車を届ければよかったはずなのに、彼はなぜか車を飛ば日曜日の午後3時までに車を届けると決めます。時速250kmで走り続けるコワルスキー。警察を振り切りながら走る彼は、1970年代当時のヒッピー文化の象徴だったのです。
『バニシング・ポイント』作品情報
タイトル | バニシング・ポイント(Vanishing Point) |
監督 | リチャード・C・サラフィアン |
公開 | 1971年7月17日 |
製作国 | アメリカ |
時間 | 1時間39分 |
Rotten Tomatoes
あらすじ
(引用:MIHOシネマ)
コワルスキー
1970年型の白のダッジ・チャレンジャーで、コロラド州デンバーからカリフォルニア州サンフランシスコを目指したコワルスキー。
車の陸送会社で働くコワルスキーは、3日間の間に車を届ければよかったのに、15時間で車を届けるという賭けを自ら申し出ます。
2000km以上もあるその距離をなぜ彼は、15時間で届けようとしたのか?
その謎は分からないまま映画は終了してしまいます。
彼を応援していたラジオDJが「何を証明しようとしたいんだ?」と思うほど、誰もが無謀だと思うことに挑んだのがコワルスキーでした。
映画が公開されたのは1971年。
この時代アメリカはヒッピー文化が盛んな時代でした。
ヒッピー文化に強く影響を与えたベトナム戦争。
反戦運動に参加する若者の多くがヒッピーでもありました。
コワルスキーはそのベトナム戦争で戦い、退役後は警察官となります。
ヒッピー達とは正反対の政府・権力側にいたのがコワルスキーだったのです。
しかしそんな中で、コワルスキーは権力に対して滅亡していきます。
警察官時代に見た、警察官の横暴。
しかもそのせいで彼は逮捕されてしまいました。
警察を辞めた後、コワルスキーはプロのレーサーに転向しました。
プロのレーサーとして抜群の腕を持っていたコワルスキーでしたが、アルコール検査を受けなかったことで首になってしまいます。
この時からすでにコワルスキーの権力への抵抗は始まっていたのかもしれません。
そして彼は時速250kmで暴走し続けることで、警察などの権力に対して抵抗したのです。
仲間の助けもありながらサンフランシスコを目指すコワルスキー。
しかしその戦いも終焉を迎えます。
警察は力づくで車を止めようとしました。
コワルスキーの車の前にブルトーザーを用意する警察。
それを見たコワルスキーは全くスピードを緩めず、ブルトーザーに突っ込んでいったのです。
最後まで権力に屈せず、権力に抵抗しようとしたのがコワルスキーだったのかもしれません。
1970年代の若者文化
暴走する車で警察を振り切り走りつづけたコワルスキー。
そんな彼を応援したのは当時の若者たちでした。
砂漠で出会ったヒッピー風の若者達は、コワルスキーに手を貸し助けてくれました。
1960年代からアメリカで起こったヒッピー文化。
それは権力や大人達への抵抗運動でもありました。
そんな若者の気持ちをコワルスキーは代弁してくれていました。
またラジオDJとして彼を応援していたスーパー・ソウル。
彼は黒人でしたが、1960年代アメリカは公民権運動の真っ只中でした。
法律上人種差別が終わっても彼らに対する差別は続きます。
そんな中でキング牧師が殺されてしまい、黒人はやり場のない怒りを抱えていました。
スーパー・ソウルはそんな怒りをコワルスキーに重ねたことで、彼を応援したのかもしれません。
また砂漠の中でコワルスキーが出会った1人の老人。
彼もまたコワルスキーた助け、砂漠から出る方法を教えてくれました。
蛇を集めて砂糖やコーヒーと交換しているこの老人は、当時のアメリカ社会の貧困問題の象徴かもしれません。
だからこの老人もコワルスキーを助けてくれました。
そんなヒッピーや黒人や貧しい人たちの英雄となり走りつづけたコワルスキー。
しかし彼は最後にブルトーザーに衝突して死んでしまいました。
それは反権力の終わりを告げていたのかもしれません。
実際に1970年代に入ってからヒッピー文化は衰退していきます。
そしてまたニクソン政権の時代でもあります。
コワルスキーの死は今後のアメリカの時代を表していたのかもしれません。
まとめ
権力と戦い最後まで屈せずに走りつづけたコワルスキー。
彼はその時代に苦しんでいた人たちの象徴でもあり、英雄でもありました。
しかし彼はラジオDJが言った通り「最後の英雄」だったのです。
映画の結末がその後のアメリカを象徴しているような作品、それが『バニシング・ポイント』です。