天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦い。兵力にしても位置にしても圧倒的に優位と言われた西軍はなぜ負け、不利だと思われていた東軍は勝つことができたのでしょうか?今回は東軍側を健康診断してみます。
「関ヶ原の戦い ウソと逆ギレの東軍編」
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天下分け目の関ヶ原の戦い。
勝敗の行方を左右したのは「寝返り工作」だ。
その影には黒田官兵衛・長政親子の人の心理を巧みに操る「詐欺の手口」があった!?
合戦直前、味方をも惑わせた徳川家康の「謎の行動」を現代医学の見知で分析。
さらに、東軍で先陣を切った猛将・福島正則の強さの源は「声と体のメカニズム」にあった!?
関ヶ原の戦い、東軍勝利の秘密を健康と科学の視点で読み解く。
(出典:https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2019-09-19/10/28460/1800063/)
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寝返り工作の心理戦
関ヶ原の戦いで西軍が負けてしまったのには、小早川秀秋の裏切りがあったからだと言われています。
そしてもう一人西軍側を裏切った人物がいました。
それは毛利輝元です。
彼は戦いの時関ヶ原に姿を見せませんでした。
さらに毛利家の軍事司令官である吉川広家は関ヶ原にいましたが、戦い参加しませんでした。
このことが西軍大敗の原因でもあったのです。
小早川秀秋に裏切りの書状を送ったのは黒田長政です。
そして吉川広家に書状を送ったのは黒田官兵衛と長政の親子でした。
策士と言われる黒田親子の作戦が彼らを西軍を裏切らせることに成功したのです。
吉川広家に書状を送った黒田親子。
彼らはGood Cop/Bad Copと言われる手法を使い巧みに広家を誘導しました。
優しい警官役は父親の黒田官兵衛です。
彼は西軍側についた毛利輝元を褒める内容を吉川広家に送ります。
その後、すぐに息子の黒田長政が家康側に寝返ることを求める書状を送りました。
しかも「あなた次第」や「戦が始まれば手遅れだ」と広家を脅します。
悩む広家の元に官兵衛から広家を安心させる内容の書状が届きました。
このことで官兵衛に心を開いた広家。
その後岐阜城が東軍側に奪われたことを知った広家は、官兵衛の書状により徳川家康側につくことを決めたのでした。
黒田親子は巧みな心理作戦によって広家を操り、西軍側を裏切るように誘導したのでした。
家康の心の病気
石田三成が家康に対してクーデターを起こした後、東軍の先発隊は清洲城で西軍側を戦おうとしていました。
しかしその頃家康は江戸城に戻ったきり、江戸城を出発しようとしませんでした。
清洲城からは江戸を出発するように催促がきますが、家康は「清洲城の家臣たちが味方かどうか信じられない」と逆ギレの手紙を返事を送ります。
1ヶ月も江戸城にこもっていた家康。
通説では策を練っていたと言われていますが、実は違う心の病気が見えてきました。
それは家康は恐れ回避型愛着障害に陥っていたかもしれないのです。
3歳の時に母と離れ離れになり、6歳で織田家の人質となります。
その後8歳で今川家の人質となった家康は、幼少期に人に対する愛着を育めなかったのです。
このことが元で人を信じることができなくなってしまった家康。
結果、パニックに陥り江戸城に引きこもっていた可能性もあるのです。
清洲城にいた先発隊は家康からの返事に奮い立ちます。
「自分たちだけで戦おう」と決め、難攻不落と言われていた岐阜城を1日で落としたのです。
このことは家康の耳にも入ります。
岐阜城を落としたことで安心した家康。
すぐに江戸城を後にし、関ヶ原に向かったのでした。
家康がコミュニケーション障害で江戸城にこもっていたとしたら、かなり家康のイメージが変わってくるかもしれません。
声での勝利
1600年9月5日。
関ヶ原の戦いは始まります。
東軍の先陣は福島正則。
迎え撃つのは西軍の宇喜多隊です。
西軍は17000で東軍は6500の兵士で圧倒的に不利でしたが、福島正則率いる東軍は西軍と互角の戦いを見せます。
先陣好きと言われた福島正則は、数々の戦で先陣をきった経験の持ち主です。
戦い方を心得ていましたし、さらに彼の声が勝利を呼び込む要因だったのかもしれません。
声を出すと持っている以上のパワーが出るという研究結果があります。
福島正則は大きな声を出しながら、敵陣に乗り込んで行ったことで、西軍と互角に戦いさらには追い込んで行くことができたのかもしれません。
2週に渡る関ヶ原の戦いの健康診断。
今までの通説とは違う、健康の面からみると違った戦い方が見えてきました。
ここから徳川時代が始まると思うと、関ヶ原の戦いがどれだけ意味のある戦いだったかが分かります。
その戦いを健康診断することで、面白い角度から関ヶ原の戦いを知ることができました。