彫刻家の高村光太郎の書いた『智恵子抄』。智恵子は光太郎の妻でした。福島で生まれ育った智恵子が東京で感じたストレス。さらに色覚障害を負った智恵子は画家としてのストレスも抱え、心を病んでしまったのです。
東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS
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太平洋戦争前夜の1941年、一冊の詩集「智恵子抄」がベストセラーとなった。
彫刻家・高村光太郎が、画家を目指す妻・智恵子との出会いから死別までの27年間の愛の軌跡をつづった純愛詩集だ。
そこには、夫・光太郎をこよなく愛しながらも数奇な運命に見舞われた智恵子の、心と体が発するSOSが記されていた!
そして、ついに心を病んでしまった智恵子の心を、夫のもとにつなぎとめた奇跡の○○○とは?時代を超えた純愛物語!
(出典:https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2019-07-25/10/19853/1800060/)
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高村智恵子
高村光太郎の詩集『智恵子抄』で知られる高村智恵子は光太郎の妻です。
1886年福島県の安達太良山の麓に生まれた智恵子は、造り酒屋の娘として裕福な家庭で育ちます。
反対する両親をよそに上京した智恵子は日本女子大学に進学しました。
卒業後画家になることを目指した智恵子は、西洋絵画の塾に通いました。
しかし智恵子には誰にも言えなに秘密がありました。
彼女は色覚障害を持っていたのでした。
塾の先生に色のことを言われて悩んでいた智恵子でしたが、ある時目にした雑誌に「芸術とは自由なものだ」と言う評論を読みます。
それは彫刻家高村光太郎が書いたものでした。
彼の言葉に心動かされた智恵子は光太郎の元を訪ねます。
そして二人は次第に仲良くなり、結婚することになったのでした。
しかし智恵子は夫となる光太郎にも色覚障害のことを隠していました。
このことが先で智恵子を苦しめたるのでした。
智恵子の抱えたストレス
色覚障害もありうまく絵を書くことができない智恵子は、次第にストレスを抱えていきます。
しかし色覚障害のことを知らない光太郎は、それは彼女の才能が足りないと思っていました。
心を病み始めた智恵子は光太郎に「東京には空がない 本当の空が見たい」とSOSを発します。
彼女の悩みを知らない光太郎はそのSOSを見逃してしまいます。
しかも智恵子の言葉を「あどけない話」として、雑誌に載せてしまうほどでした。
福島生まれの智恵子にとって東京での生活自体がストレスでもありました。
さらに結核を患っていた智恵子。
治療のために実家に戻った時だけが、心が癒される時間でした。
夫にも理解されない智恵子。
さらに不幸が重なります。
実家の造り酒屋が倒産してしまい、智恵子は故郷も失ってしまったのでした。
よろどころも失ってしまった智恵子は大量の睡眠薬を飲み自殺を図ります。
なんとか一命を取り留めますが、もはや智恵子の心は壊れてしまっていました。
智恵子は統合失調症だと診断されます。
当時はまだ薬がなかったために、智恵子は精神病院に入院することになりました。
智恵子を救った自己治療
光太郎は智恵子の元にお見舞いに向かうとき、彼女の好きな千代紙を持っていきました。
智恵子はこの千代紙に反応を示します。
そして智恵子は切り絵に夢中になっていきます。
智恵子の作品を見た光太郎は、「素晴らしい」と褒めます。
その言葉が嬉しくて智恵子は、光太郎に見せるために切り絵に励みました。
これが智恵子にとって治療になっていたのです。
好きなことに夢中になることで、智恵子は知らぬ間に自己治療を行っていたのでした。
切り絵のおかげで元気を取り戻した智恵子。
光太郎と智恵子の楽しい時間がまた戻ってきました。
しかし持病の結核が悪化した智恵子は、1938年10月53歳でこの世を去ってしまいました。
芸術家としてまた都会での暮らしにストレスを抱え心を病んでしまった智恵子。
光太郎は智恵子の亡くなった後に、「智恵子抄」を出版します。
そこには光太郎の智恵子への愛情が込められていました。
ストレスを抱え智恵子にとっては辛い時期も多かったでしょうが、きっと光太郎と過ごした時間は智恵子にとっても掛け替えのない時間だったはずです。