NHK『偉人たちの健康診断』ペリー来航 酒と痛風の日米交渉

日本へ開国を要請しにやってきたペリー。アメリカと日本の開港には大きな隔たりがありましたが、それを変えたのはある秘策でした。さらにアメリカに帰国後ペリーを待っていた運命。今回はアメリカ人ペリーを健康診断しています。

目次

ペリー来航 酒と痛風の日米交渉

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黒船を率いて日本にやってきた米海軍提督マシュー・ペリー。

大砲で日本を威嚇した「砲艦外交」で日米和親条約を結んだとされるが、その裏には、日米双方の激しい「接待合戦」があった!

接待が相手の意見を変えるメカニズムとは?

さらに、長年患っていた痛風が、帰国後のペリーの命を奪った可能性が浮上。

「ビールを避けてプリン体の少ない焼酎やウイスキーを飲めば大丈夫」というのは大間違い!?

痛風の常識を問い直す。

(出典:https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2019-07-25/10/19812/1800059/)

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マシュー・ペリー

黒船を率いて日本へやってきたペリー。
日本へ開国を迫ったペリーですが、彼は1974年ロードアイランド州ニューポートの港町に生まれます。

エリート海軍一家の三男として誕生したペリーも、14歳で海軍に入隊しました。
9歳上の兄オリバーに強い憧れを抱いていたペリー。
兄は「人の命を最優先」に考え行動する人物でした。

その兄を尊敬していたペリーは、1852年54歳の時に日本開国のミッションを受けます。
長旅を経て1853年7月8日浦賀にやってきたペリー。
兄のように平和的な交渉を望み、それを実践したのでした。

黒船来航

ペリーは2回日本へやってきています。
最初にやってきたのは1853年7月8日です。
浦賀にやってきたペリー。

大統領の開港の要請を日本に伝えます。
さらにペリーは江戸湾の測量を行っていました。
日本にとっては機密事項でもあり、役人達がペリーの元へ乗り込みます。
するとペリーは、役人にお酒を振る舞い役人の怒りを沈めたのでした。

半年後の1854年2月11日。
ぺリーは2度目の来航をします。
その時は測量の赤毛で横浜まで艦隊を進め、かなり日本側へプレッシャーをかけたのでした。

アメリカ側は長崎以外に5つの港の開港を望みます。
しかし日本側の答えは長崎ともう1つのみ。
二国の間には大きな違いがありました。

そこでまず日本側はペリー達を大宴会でもてなします。
これにはかなりペリーも気を良くしたようです。
すると今度は3月27日には、ペリーが日本の役人達を接待しました。
フランス料理でもてなし、軍楽隊の演奏もあり楽しい時間となったようです。

接待を行うと味覚や視覚・聴覚などから楽しい刺激が脳へ伝わります。
するとその楽しいという感情が否定的な意見をも和らげる効果があるのです。

接待の効果があったのかどうかはわかりませんが、長崎に加え下田と函館を開港するとうことで日米和親条約が締結されました。

日米がともに妥協し、平和的に解決したのが日米和親条約だったのです。

ペリーの晩年

日本での開港を成功させて1855年1月アメリカへ帰国したペリー。
しかし待っていたのは、厳しい現実でした。

当時のアメリカは南北戦争が始まる直前。
日本への遠征でお金を使ったことを批判されてしまいます
さらに政権の民主党に交代していた中、ペリーは海軍での居場所を失ってしまいました。

当時NYに住んでいたペリーは失意のどん底のなかパブに通うようになります。
そしてそこでお酒を浴びるように飲むようになったのでした。

日本への来航時から痛風の疑いのあったペリー。
当時は痛風だと判明していませんが、現代から考えるとペリーの症状は痛風だと考えられます。

ラム酒が好きで船の中でも毎晩ラム酒を飲んでいたペリー。
アメリカの帰国後さらにお酒の度合いが進んでしまったペリーは、気づかぬうちに痛風を悪化させていました。

そして1858年2月に体調を崩します。
その後3月4日心臓発作で倒れ帰らぬ人となってしまいました。
享年64歳でした。

痛風はプリン体の摂取により、尿酸値が高くなってしまうことです。
尿酸値が高くなると血管壁が気づつき、動脈硬化などを起こすこともあるのです。
アルコールの過剰摂取により、ペリーは命を落としてしまうことになったのかもしれません。

日本では黒船に乗り日本へやってきた人物として知られているペリーですが、その晩年は辛い人生を送っていたのでした。

 

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