NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」内容と考察

大正デモクラシーの時代、近代化の流れが進み言論の自由など国民は多くの自由を手に入れていました。しかしそれからたった10年足らずで国民は自由を失い、日本は戦争へ突入して行ったのでした。その10年の流れを右派新聞「日本新聞」とともに読み解きます。

目次

「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」

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戦前最大の右派メディアが見つかった。

時の司法大臣・小川平吉が、1925年に創刊した「日本新聞」である。新聞が発行されていた11年間は、日本が「大正デモクラシー」から急速に「軍国主義」に傾斜していった時代だった。

なぜ日本人は、一度は手にしていたはずの「自由」を手放し、「戦争への道」を進んだのか。「日本新聞」を手がかりに、見つめていく。

(出典:https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586168/

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日本新聞

1925年に小川平吉によって創刊された「日本新聞」。
日本主義に基づいた新聞で戦前の最大の右派新聞でした。

日本主義とは天皇が統治する国家体制を絶対とする思想で、「日本新聞」この思想は編集方針となっていました。
そしてこの思想から外れることを激しく糾弾していた新聞でした。

日本新聞が創刊された当時は大正デモクラシーと呼ばれる自由な空気が溢れた時代でした。
欧米の文化が盛んになり、近代化が進みます。
国民は言論の自由を得て、選挙は普通選挙が導入されました。
さらに議会政治によって軍の力は抑えられていました。

日本新聞はこのような自由主義的な風潮が国家の危機を招くと新聞にかきたてました。

国民の変化

日本新聞の発行の目的は自由主義という思想を広めることでした。
しかし当時の自由な風潮には、この主義は受け入れられませんでした。

それがたった10年で世論は変化してしまったのです。

統帥権

1930年浜口総理大臣は海軍の反対を押し切りロンドン軍縮条約に調印しました。
国民に圧倒的に支持されていた浜口総理の条約調印を支持し、国民は軍縮を支持しました。

これに対して日本新聞は条約調印は憲法違反だと糾弾しました。
明治憲法に定められる統帥権。
天皇が軍を指揮する権限に違反していると連日新聞に書きました。

そして海軍は日本新聞の記事を利用して、統帥権を主張しこれに対する異論を排除していきました。
このことがこの先日本人の言論の自由を奪う発端となっていったのです。

昭和恐慌

1930年昭和恐慌で日本は不況にどん底に陥ってしまいます。
しかも政府には打つ手がなく、国民の生活は窮地に陥ってしまいました。
農村部では娘お身売りまで起きてしまいます。

この現状に怒りを覚えた青年たちが、日本主義に共鳴していきました。

狙撃事件

日本主義に共鳴していく青年が増える中、浜口総理大臣狙撃事件がおきます。
この事件を皮切りに議会政治を重んじていた政治家たちが次々と標的になっていきました。

そして1932年五・一五事件が起こり、犬養毅が暗殺されてしまいました。

日本新聞は被告の言葉を新聞で連日伝え、国民は被告の言葉に同情を示すようになります。
そして被告たちに減刑を求めるようになったのです。

満州事変

1931年9月満州事変が勃発し、中国東北部を占領します。
この事件により、自由な空気が一気に変わり始めました。

軍縮を支持していた人たちが、閉塞した社会の中で満州侵攻に熱狂してしまったのです。

さらに「日本新聞」は満州事変を聖戦と新聞に書きました。

10年間の変化

日本主義を広め拡散していった日本新聞。
海軍とも繋がりを持ち、統帥権を訴え言論の自由を奪っていきました。

その結果たった10年の間で自由を楽しんでいた国民は、自由を失ってしまったのです。
昭和恐慌で飢えていた国民の心に、日本主義が浸透していったのです。

そして日本は太平洋戦争へと突入することになったのです。

まとめ

自由だった日本がどうして自由を捨てて戦争に突入していったのか。

そこには1つの新聞による主義の拡散がありました。

恐慌という時代の流れも重なり、日本国民の心はどんどん閉鎖的になってしまいます。

そして気がついた時には自由を捨ててしまっていたのでした。

当時は新聞でしたが、現在はSNSの時代です。

その威力はもしかすると当時の新聞よりも力があるかもしれません。

1925年からの10年間の出来事を遠い昔のこととするのか、現代にも共通するものと考えるのか、それは自分次第です。

 

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