NHK『偉人たちの健康診断』松尾芭蕉 危険な“いびき”対処法

今回の健康診断の相手は松尾芭蕉。タイトルを見ると松尾芭蕉がいびきに悩まされていたようですが、弟子のいびきに悩まされていただけです。それよりも松尾芭蕉は他の病に悩まされていたようです。

目次

松尾芭蕉 危険な“いびき”対処法

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江戸時代、大勢が集まって滑稽な句を作りあうものだった俳諧を芸術の域にまで高め、今も俳聖と呼ばれる松尾芭蕉。

芭蕉はまた旅に生きた「漂泊の詩人」でもあり、晩年の10年で歩いた距離は6500キロ!

芭蕉は地方の大名の情勢を探る忍者だったのでは?という説を唱える研究者もいるほどの健脚を支えたのは、芭蕉が愛したあるお茶漬けだった!

そして旅の途中芭蕉を悩ませたのは、命に関わることもある弟子のいびきだった!?

(出典:https://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2019-05-23/10/4371/1800052/)

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松尾芭蕉


芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

1644年 伊賀に生まれた松尾芭蕉は農家の家の次男として生まれました。
父親が亡くなった後、奉公のために藤堂良忠に仕えることになりました。

俳人である良忠と仲良くなり一緒に俳句を詠むようになった松尾芭蕉。
この頃から俳句を始めたと言われています。
しかし芭蕉自身は良忠に仕え、いずれは武士になりたいと思っていました。

武士になることを夢見ていた芭蕉でしたが、芭蕉が23歳の時に良忠は亡くなってしまいます。
その後芭蕉は俳人として生きていくことを決め江戸に向かいました。

日本橋で弟子を集めながら俳句を広めた芭蕉。
35歳の時には宗匠のの地位まで登りつめていました。
しかしその頃俳諧賭博というものが流行り始めます。

芭蕉の求める俳句とは違っていたため、芭蕉は37歳で日本橋をさり深川に移りました。
芭蕉庵と呼ばれる入庵で貧しく静かに暮らしていた芭蕉でしたが、1683年の天和の大火で全てを焼き尽くされてしまいました。

何もなくなってしまった芭蕉は旅に出ることを決意し、ここから芭蕉の旅が始まるのでした。

芭蕉は忍者だった?


週刊 マンガ日本史 改訂版 55号 松尾芭蕉

記録に残っているだけでも5回の旅を行った芭蕉。
その総距離は6500kmとも言われています。

40歳を過ぎた芭蕉が健康的に旅を続けられたのは芭蕉庵でよく食べていた奈良茶飯のおかげかもしれません。

奈良茶飯とは現代のお茶漬けのようなものです。
お茶よりもお茶漬けの方がカテキンをたくさん吸収できます。
芭蕉はカテキンのおかげで健康的に旅を続けられていたのかもしれません。

そんな芭蕉に1つの説があります。
それは「芭蕉は忍者だったのでは?」という説です。
伊賀生まれということもありますが、奥の細道を旅していたのは伊達藩の情報を集めていたからではとも考えられています。

忍者というよりも隠密としてスパイ活動を行っていたと思われている芭蕉。
真実はわかりませんが、もし芭蕉がスパイだったらと思うと芭蕉の詠んだ句も違った見え方になるのかもしれません。

松尾芭蕉を悩ませた持病


NHK「100分de名著」ブックス 松尾芭蕉 おくのほそ道

芭蕉は旅には弟子と一緒に出かけていました。
芭蕉の弟子の1人である坪井杜国。
彼はいびきがうるさかったようです。
芭蕉は杜国のいびきのうるささを絵に描き残しています。
それほどいびきに悩まされていたのかもしれません。

そんな芭蕉自身は他の病気に悩まされていました。
芭蕉の持っていた持病。
それは疝気(せんき)という病です。
疝気とは腹痛のことです。

芭蕉は今でいう潰瘍性大腸炎という難病にかかっていた可能性があります。
良くなったり悪くなったりする腹痛。
さらに芭蕉が痔持ちだったことからも潰瘍性大腸炎と推測できるのです。

腹痛が治った頃芭蕉はまた旅に出ます。
博多に向かっての旅でした。
1694年に旅立った芭蕉でしたが、大阪で病に倒れてしまいます。
そしてそのまま元気になることはなく、1964年10月12日に息を引き取りました。

芭蕉は前の年に甥を肺結核で亡くしていました。
甥の看病に当たっていた芭蕉はもしかしたら、菌をもらっていたかもしれません。
腸の弱い芭蕉、結核菌が腸に入り腸結核で亡くなっってしまった可能性があるのです。

 

旅に生き旅先で亡くなった芭蕉。
芭蕉の有名な句の多くは旅先で生まれています。

芭蕉の目に映ったたくさんの景色が、美しい句となって現代の私たちにも届けられているのです。

 

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