映画『ワンス・アンド・フォーエバー』ベトナム戦争におけるイア・ドランの戦い

映画『ワンス・アンド・フォーエバー』は、アメリカ軍と北ベトナム軍の初めての大規模な戦いとなった1965年のイア・ドランの戦いを描いた作品です。ベトナム戦争初期イア・ドラン渓谷でどのような戦いが繰り広げられていたのか、アメリカ 北ベトナム両軍の視点か見ることができます。

目次

『ワンス・アンド・フォーエバー』作品情報


ワンス・アンド・フォーエバー

タイトル ワンス・アンド・フォーエバー(We Were Soldiers)
監督 ランダル・ウォレス
公開 2002年6月22日
製作国 アメリカ/ドイツ
時間 2時間18分

あらすじ

(引用:MIHOシネマ

イア・ドラン渓谷の戦い

1965年11月14日ハル・ムーア中佐率いる第7航空騎兵隊第1大隊が、北ベトナム軍が逃げたとされるイア・ドラン渓谷に降り立ちます。

それはベトナム戦争にアメリカが介入してから初めての大規模な戦いとなりました。

アメリカ軍の基地を攻撃し山の中に逃げ込んだとされる北ベトナム軍。

ムーア中佐達は逃げた北ベトナム軍を一掃することが任務でした。

敵が何名いるのかも敵の戦力も分からず部下を引き連れてイア・ドラン渓谷にムーア中佐は降り立ちますが、そこは北ベトナム軍4000名が待ち構える師団の基地だったのです。

何も知らずに降り立ったムーア中佐達は、すぐに北ベトナム軍の兵士達に包囲されてしまいます。

偵察に出た小隊も孤立してしまい圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまったのでした。

映画の中ではムーア中佐率いる部隊の兵士に人数は395名となっていましたが、アメリカ軍は人数的にかなり不利な状態で戦うことになってしまったのです。

一方北ベトナム軍は用意周到に第7航空騎兵隊の兵士達を追い込んでいきます。

ヘリの着陸地点を封鎖し、アメリカ側が砲撃を仕掛けてくると、接近戦で砲撃を封じ込めました。

動きの取れなくなってしまったムーア中佐は「ブロークン・アロー」を発動するしかありませんでした。

ブロークン・アローとは崩壊寸前で航空機の全面支援を求めることを意味します。

それほど第7航空騎兵隊第1大隊は追い込まれていたのでした。

戦いの結果

1965年11月14日に始まった戦いは3日間続きようやく終わりを迎えます。

映画で描かれているように、かたち的にはアメリカ軍の勝利で終わりましたが、多くの死傷者を出す戦いとなってしまいました。

北ベトナム軍による接近戦により防御線を突破されてしまった第7航空騎兵隊でしたが、3日目となる11月17日アメリカ軍はヘリコプターによる航空攻撃で形成を逆転させます。

そして一気に北ベトナム軍の前線に押し入ったのでした。

それを受けて北ベトナム軍側は撤退を始めます。

これによって壮絶だったイア・ドランでの戦いがようやく終わったのでした。

実話を元にして作られた映画『ワンス・アンド・フォーエバー』は、ムーア中佐とUIPの記者ギャロウェイが発表した本が元になっています。

劇中ギャロウェイは「この戦争をどう伝えていいか分からない」と苦しみます。

しかし彼はムーア中佐の「戦地のこと亡くなった兵士のことを伝えろ」という言葉を元に、中佐と共に本を執筆します。

アメリカに戻ってからもイア・ドランでの出来事が忘れられないギャロウェイでしたが、それは彼だけでなく多くの帰還兵が同じよ思いを抱いていたのです。

映画の中でムーア中佐の娘が「戦争って何?」と質問しますが、その答えは中佐たちの書いた本、そしてこの『ワンス・アンド・フォーエバー』なのかもしれません。

まとめ

ベトナム戦争初期のイア・ドラン渓谷の戦いを描いた映画『ワンス・アンド・フォーエバー』。

この作品を見ると当時の戦況を詳しく知ることができ、そして戦地でどのようなことが起きていたのかを見ることができます。

またカメラワークから戦地の状況を体感できるようにもなっていました。

「戦争とはどのようなものなのか」その答えが、『ワンス・アンド・フォーエバー』には詰まっています。

 

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